RI2700地区・地区史ノートVol.02「戦後地区編成の歩み(1)」

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■戦後地区編成の歩み(1)

日本の戦後史を辿ってみますと、1955年から10年間は、私どもの生活にとって、大へん重大な意味を持っていると思います。 明治維新以来、日本は欧米に追いつけ追い越せと、絶えず努力を続けて来ました。 第二次世界大戦でその願いは、一時挫折はしましたが、その目標が達成出来たのが、この時代といってもよいでしょう。そして、ロータリーは国際的にも、日本国内においても、ロータリー活動の原型の多くが、この時期に出来上がっているのです。ロータリーの創立以後、第二次世界大戦を経て戦後日本が国際ロータリーに復帰して、1950年代の半ばに至るまでの、日本の、さらに西日本のロータリーの流れについては、2002-’03年度ガバナー月信7月の『梶原景親著:ロータリー100年の歩み』や『ロータリー五十年史』などをお読み下されば、詳しく書いてありますので、それをご覧頂くことにして、ここでは概略を述べておきましょう。

戦後、1949年3月23日東京仮ロータリー・クラブが、発足し、小林雅一が会長に指名されました。 日本のクラブが、国際ロータリーに復帰するには、3つの条件がありました。 即ち、それまで存続していた各曜会の解散、国際ロータリー定款細則の厳守、及び国際ロータリーに関する義務の完全履行、の3条件です。 特に、戦前の日本のロータリー・クラブは、日本国内のクラブだけで1つに固まり、独自の活動を計画することがありましたので、そのことがないようにとの条件がつけられました。 この年、京都、大阪、名古屋のクラブ、次いでが4月22日に福岡ロータリー・クラブが復帰し、これに札幌クラブが加わって、以上の7クラブでRI第60地区を形成することになりました。

1950年6月朝鮮戦争が勃発しましたが、この年からよく1951年にかけて新旧あわせて28クラブが誕生、会員も戦前は実業人だけだったのですが、医師、弁護士、教育家、芸術家、宗教家など、多くの職業人がメンバーに加わるようになりました。 この時期、日本国内のロータリー・クラブの拡大は目を見張るもので、日本を、石川・岐阜・三重の3県より東日本の38クラブを第60地区、福井・奈良・滋賀・和歌山を含む西日本の28クラブを第61地区に分割することになり、1952年7月1日から実施されました。東西2地区に分割後最初の地区大会は、1952年11月15,16の両日福岡市九電会館で開催されました。

ロータリーは、1955年2月、創立50周年を迎えました。日本国内でも、各地で盛大な祝賀会が催されました。 これより以前から、国内地区の分割が計画されていましたが、この年全国を4地区に分割、岡山県以西の12県は、第64地区に所属することになりました。

当時の国内の状況は、『もはや戦後ではない』という一言に象徴されるように思われます。 国民支出のなかで、衣服・住宅費の割合が食料費を超えたのもこの頃ですし、造船・建築・土木その他多くの産業が強気になって、設備投資や生産活動が活発になった時代です。戦後生まれの『団塊の世代』も、この経済成長によって、雇用不安は解消された訳です。しかしながら一方では、徐々にエネルギー革命が進行して、やがて鉄道輸送は車へと変わり、それから10年も経たないうちに、筑豊炭田は完全に消滅してしまうのです。

すでに述べましたように、1955年(昭30)に全国は4地区に分かれ、西日本では岡山県以西が第64地区となりましたが、2年後の1957年(昭32年)、国際ロータリーの地区番号整理により、この第64地区は第370地区に呼称変更されました。 このとき、全国は5地区になりました。 地区の編成替えは、RIの事務的方針によるものですが、一方、日本国内のロータリー・クラブの熱心な増強・拡大活動の成果を示すもので、日本におけるロータリーは、めまぐるしい勢いで広がるとともに、その活動内容も、年とともに充実して行きました。

この当時、『一都市一クラブ』というのがRIの原則で、例えばニューヨーク市などでは、大都市にも拘らず1つのクラブしかなく、しかも『一業種一人』の原則が厳しく守られていましたので、入会希望者が多くて、処理しきれない状態でした。この解決策として生まれたのが、1つの都市に複数のクラブを認めるという『アデイショナル・クラブ』の制度です。福岡西RCが、九州最初のアデイショナル・クラブとして創立されました。

この当時は、その他にもロータリーのルールは大へん厳しく守られており、クラブのテリトリー決定ひとつを見ても、大へん厳しいものがありました。 例えば、福岡西RCでは、山田 穣(当時は九州大学学長)、進藤誠一(九大仏文科教授 1962-’63年度地区ガバナー)の両氏が会員でしたが、ガバナー公式訪問の際に、二人とも福岡西RCのテリトリー外だから会員資格はないと指摘されて、問題になったことがあります。その後、どのような手続きのもとに処理されたか明らかではありませんが、当時ロータリーに関するルールが厳しく守られていたことは、現在ではとても想像できないことでしょう。

1956年10月に横浜で開催された第62地区の年次大会で、国際大会の東京誘致が決議されました。これを受けて、1958年1月のRI理事会で、1961年国際大会東京開催が、正式に決定しました。
東京での国際大会開催は、世界的にも大きな反響を呼び、前年度のマイアミ国際大会では、『友愛の家』に日本のブースが設けられ、日本から持参したプレゼント用の扇子や法被が、大会に参加したロータリアンの間で、奪い合いになる状態でした。 国際大会開催の前景気は上々であったものの、1961年といえば、安保改定をめぐって、全学連の安保反対闘争が最盛期を迎えた年です。 一時は、東京国際大会も中止しなければならないかと危ぶまれましたが、5月28日の前夜祭には、天皇皇后両陛下をお迎えすることが出来ました。 その後、6月1日までの5日間の会期を無事盛大に終えることが出来、参加国74ケ国、登録数23,366人という新記録を樹立することが出来たのです。 この年1961年(昭36)、第370地区のテリトリーは、九州全県と山口県になりました。

1961年の東京国際大会は、日本におけるロータリー新時代の幕開けだといってもよいでしょう。 日本国内では、各地で盛大な地区大会が催され、国際社会のなかでの日本のロータリアンの責務や、ロータリーと国際理解などをテーマとして、熱の入った議論がなされました。ロータリーは創立以来、絶えず国際的な若者の人作りを、奉仕活動の柱の一つにしています。 わが国でも、1963年(昭38)6月には、仙台市の仙台育英高校に、仙台RCの提唱により本邦初のインターアクト・クラブが誕生しました。 各地のロータリー・クラブの国際的な奉仕活動が盛んになったのも、この頃からです。 例えば、豊前RCでは、友愛のしるしとして、杉の種子を米国やカナダなど国外の22クラブに送る活動をしましたが、そのうちカリフオルニアのオレンジRCでは、贈られた種子から育った杉の苗木を競売して、その売上金を、日本の女子留学生にプレゼントするというような国際交流も目立つようになりました。 このように日本国内だけでなく、ロータリーは世界的にもその活動を広げて行きましたが、そこに起こった1963年11月のケネデイー米大統領の暗殺事件は、世界の人々に強い衝撃を与えました。
(菅 正 明)

> 戦後地区編成の歩み(2)

※本文は菅 正明PGによりまして戸畑東RCのホームページに掲載されましたものを許可を得て地区ページに転載しております。

これをお読み頂いた会員の皆さんは、これを契機に、地区の流れに興味を持っていただきたいと思います。 そして、出来れば、あの時はこうだったと、過去の出来事を思い出して下さい。
会員の皆さんのご記憶や、保存資料がございましたら、どんなものでも結構ですから、『地区ガバナー事務所』 か、『戸畑東ロータリー・クラブ』事務局まで資料をお寄せ下さい。