RI2700地区・地区史ノートVol.05「1960~1980年ころの日本」

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■1960~1980年ころの日本

前回、第2700地区59クラブの60パーセントは、1969~’80年の20年間に創立したと書きました。この時期は、日本の敗戦後、国内の経済成長が進むに伴って、日本全国に大小の都市が次々と誕生、いわゆる都市化が進んだ時期です。 それまでは、国内の地域的特性はどうにか保たれていましたが、このころから日本中どこへ行っても、コンビニとファースト・フードの店が並んでいて、農村も都市もない画一的な町が出現しました。

日本のロータリー・クラブは、戦前は都会のしかもVIPの集まりであったものが、日本全国の隅々までといってもよいほど、どこの町にも拡がったのが、ちょうどこの時期です。 戦後の日本を振り返ってみますと、このころは、まだ市民生活に色々な困難な問題が沢山ありましたが、私は、国中がいちばん活力に溢れていた時代だったと思います。 そのころのことを振り返ってみるのも、決して無駄なことではありますまい。

1960~’80年代といいますと、日本のIMF八条国への移行、経済開発機構(OECD)加盟から、プラザ合意までといってもよいかも知れません。 この間に、日本は先進国の仲間入りを果たして、発展途上国への援助の責任を負うことになったのです。 国際ロータリーのなかでも、RI復帰後、日本ロータリーの果たす役割が重くなってきたのも、この時期です。

1961年に始まったベトナム戦争は、1960年代の後半に至ってますます激しさを増しましたが、一方では韓国、台湾、香港、シンガポールなどのアジア諸国に、目覚しい経済成長をもたらしました。 ベトナム戦争は、アジアの経済を発展させはしましたが、アメリカ本土においては、1975年の戦争終結後も、米国内に経済的、社会的に大きな爪あとを残しました。

1960~’70年にかけて、日本の陸上輸送は、旅客も貨物もともに鉄道から車へと変化しました。 東海道新幹線は、東京オリンピックが開催された1964年に開通、その同じ年に、初めてのインターアクト・クラブが米国フロリダ州で発足しました。 WCSが出来たのも、この年です。 ベトナム戦争の影響が浸透して、アメリカ社会に癒しがたい影響を与えようとしているときに、インターアクト・クラブが生まれたというのは、如何にも象徴的ではありませんか。

国内では、池田内閣から佐藤内閣に代わりました。 池田内閣の時代には、いわゆる所得倍増計画を実行するということで、内政に政治の焦点を当て、主として経済成長政策を推し進めましたが、佐藤内閣に代わると、日米や日韓など、それまで殆ど手をつけていなかった政治課題である外交問題に、積極的に取り組みました。 かくて、1971年に沖縄返還協定が調印され、沖縄は翌1972年5月、日本に返還されました。

1960年の終わりから1970年代は、経済成長のもとで、国民の実質所得も急激に増加しました。 主要産業での賃金は、上昇率15パーセントに近く、消費者物価の年率5パーセントの上昇を見込んでも、実質年10パーセント近い所得増が続いたのです。 住宅の平均部屋数は増え、乗用車は農村部から都市部へと普及しました。 医療機関の数も増えました。 高校進学率は1970年代の半ばには90パーセントを超え、大学進学率は上昇し、女子の大学進学も増えてきました。 国民の多くが中流意識を持つようになったのも、この時期です。

生活水準が上昇するにつれて、社会的には公害問題がクローズアップされるようになりました。 すでに1950年代に入って間もなく、水俣病や四日市喘息などが問題視されていましたが、これらが大きな社会問題として取り上げられるようになったのは、1970年になってからです。 1970年に中央公害対策本部が設置され、公害関連14法案が衆議院を通過、産業廃棄物規制で、事業者の責任が明記されました。 経団連では、はじめこの法案には、必ずしも賛成ではなかったようです。 後に制定された『経団連企業倫理宣言』では、環境保全について、これは企業の基本的倫理であると規定してあります。 この経団連の宣言に興味をお持ちの方は、各地の商工会議所にお申し込みくだされば、入手できます。 翌1971年に、環境庁が発足しました。 この後間もなく、ロータリーでも環境問題の重要性が注目され、やがて1990年、社会奉仕部門の重要なテーマとして『環境保全』が取り上げられることになりました。

戦後のいわゆる団塊の世代が、大学に進学するのは1960年代です。この時期に、日本の大学数は245校から369校に増え、学生数も67万人から116万人になりました。 60年安保の後、多くの高校生まで巻き込んで起こった大学紛争は、連合赤軍による赤間山荘事件のような悲惨な事件を繰り返しながら、やがて影を潜めてゆきました。 あのような、短期間の反社会的事件の意味するものは、果たして何だったのでしょうか。 この時代に大学生活を送った世代は、もう大方還暦を迎える年代でしょう。 これからのロータリーをリードして行くのは、彼らの世代なのですが、どのような道を進んで行くのでしょうか。 世界のロータリー活動が変革の時代を迎えていると同じように、日本のロータリーも変わって行かざるを得ないでしょう。その舵取りをするのは、団塊の世代のロータリアンです。彼らは、日本のロータリーをどのようにリードして行くのでしょうか。大きな期待を持って眺めたいと思います。

1972年、『日本列島改造論』を引っさげて田中内閣が発足しました。丁度、いわゆるニクソン・ショックの後です。 その後、全国で公共事業が増加しました。 老人医療費が無料化し、老齢年金の増額などもあり、1973年は『福祉元年』ともいわれました。

この頃から、大学生のなかに反体制的な雰囲気は見られなくなりました。 一般的に、自分で物事を考える努力をしないとか、自分の固有の意見を持たないというような学生が多くなったのも、この頃からです。 政治についても、『支持政党なし』が増加してきました。社会的風潮につきましても、『金や名誉を考えず、趣味に合った暮らしを送りたい』とか、『クヨクヨしないで、呑気に暮らす』などと考える傾向が強くなり、『社会のために尽くす』とか『一生懸命に働いて、金持ちになる』というような、目的志向の考えが減少、社会の変化を好まない傾向が、目立つようになりました。 ベテランのロータリアンから、ロータリー活動の低迷や、ロータリー意識の低下についての厳しい意見が再々出されますが、このような一般社会における生活意識の変化が、ロータリー活動の変化の背景にあることも、無視出来ません。

田中内閣は、やがてロッキード事件で倒れます。 国内では、素材型産業が低迷し、エレクトロニクスや、電気、精密機械などの産業が著しく伸展し、第三次産業の拡大発展が目立ってきました。 日本の対米、対欧貿易は、第一次石油ショック以来急増し、貿易収支では黒字幅の拡大が目立ってきました。

1970年代の、国内自動車の生産台数は、年産650万台であったものが、1980年代になると年産1,100万台を超えました。 これが国内の高度経済成長の後、輸出に回ることになったのです。 日本の輸出は増加の道を辿り、日本の国際収支は大幅な経常黒字が続きました。 円は、一時170円台の高値をつけたこともありましたが、その後は、240円台前後で推移していました。 1985年、ニューヨークのプラザ・ホテルで先進5ケ国蔵相会議が開催され、ドル以外の通貨の上昇が求められました。 いわゆるプラザ合意ですが、その後、急激な円高が進むことになります。
(菅 正 明)

> ロータリー創立75周年記念事業(1)

※本文は菅 正明PGによりまして戸畑東RCのホームページに掲載されましたものを許可を得て地区ページに転載しております。

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